濃いお茶がこわい

ブログ名は、落語「饅頭こわい」のさげ。よく出来た話である。

【読書log】望郷/湊かなえ

お久しぶりです。ご無沙汰しております。と、言えば、連絡をしなかったことも帳消しである。「連絡はしなかったけど、会いたかったですよ(あなたのことを案じていたのですよ)」となる。日本語は、本音と建前で構成されている。難しい(てか、めんどくせぇ)。その言葉の真意まで到達しようとする心のさもしさよ。あー、もー、ストレス。

湊かなえ」と言えば『告白』で有名になった作家である。その代表作を差し置いて、『望郷』を手に取った。白綱島、という島を舞台に、繰り広げられる6つの物語。「島」という閉鎖された空間と、そのなかで生活を営む人々の胸中。本土へ出る者、島に残る者、本土へ出て島に戻る者、本土から島へ移住する者。「島」という舞台が、これほどまでの広がりを見せるのか!と驚き、また、ミステリーとしても十分なものであった。最後の話は、心揺さぶるものがあったりもした。田舎を離れて、また田舎に戻った私からすれば、共感できる場面が多かった。

いっそ、私も小説の中に入りたい。そうすれば、いやでも物語は進み、いろいろなことも起こって、洒落たセリフも言わせてもらえるかもしれない。間違えれば、殺人をすることもあるかもしれないが、私の狂気や思想は読者の元へ届くはずだ。つまり、月並みな言葉を使えば、私は孤独だ。だれも、その心の奥底に辿り着かない。逆に、何も心の琴線に触れない。宙に浮いて、頼りない存在と化している。だれの責任を取るわけでもなく、私は生きている。今を最高に生きるために何かをしたいのに、その気力も、その目的もない。ただ、呼吸を止めたりはしない。

【読書log】もものかんづめ/さくらももこ

ちょっとだけの、恋をしている。あの人いいなぁ、と思う人がいる。まだほとんど知らない。数回だけ話した程度でしかない。もうちょっと知りたいなと思っている。話しかけたいけど、なかなか話しかけるのもむつかしい。どんな話したらいいか、とか考えてる時点で、結構気になってるのだと思う。やっぱり彼氏はいるのかな、とか思って、尻込みしてる。いつも勇気が足りない。頑張って振り絞って、ようやくたどたどしく話はじめる。どうも恋は奥手なのです。

そういえば、二十七歳になった。もっとちゃんとしなきゃです。幾らか弱気なのは、太々しいよりはマシだと考えている節があるからで。決して何かを失ったからではありません。嫌われたくないから、というのに近いですが、やたら嫌われたくないとも思ってない。私は煩わしいのが嫌いなので、それが増えるような言動を慎んでいるに過ぎない。さらに、煩わしさを回避することの煩わしさに足を取られないよう気を配る必要もあり、結局煩わしいあれこれが発生し…。

こうやって考えていると、さくらももこが羨ましく思える。ときに笑える。「ちびまる子ちゃん」の適当さが『もものかんづめ』に詰まっている。嫌なことから目を背けたいときは、さくらももこのエッセイを読むようオススメする。題材、語彙、言い回し、エッセイとしてのクオリティはかなりいい線である。大げさに言えば、爽快である。私は、前回のブログでも書いたように、昨年末から慌ただしくどちらかと言えば閉塞感のある日々を送っていた。そのなかで『もものかんづめ』は、どこか愉快で、パッパ、パラリラであった。

【読書log】なんとなくな日々/川上弘美 *再読*

年の年末から、何とも忙しい日々を送っていた。異物のクレーム対応、度重なる取引先による監査。詐欺師に出会ったり、友人が悪徳商法らしき仕事に就いていたり、何でもありなんだなと思うこの世界。その反面、良いことにも出会っている。ステキな女性と知り合いになったり、弓道が楽しくてたまらないし四段に受かったり。良い意味でも悪い意味でも、また違った世界を見ることができている。何とも面白い。今年は良い年になりそうで、楽しみである。川上弘美のように、なんとなく、ステキな日々を送ることは私にはできそうにない。けれど、私なりに充実した日々を送ることはできる気がしている。できるだけ、生産性のある日々を送るように気を付けてみる。

なんとなくな日々、適当なタイトルの割に結構良い。とりわけ好きなのは、川上弘美と甥っ子の話。「ぼくはね、変な顔なの。毎日鏡を見るたび、変だな、と思うの」と言いだす。でも、ある日突然、「おばちゃん。ぼくは自分のことを変な顔だと思うことをやめたよ」と言う。そして、こう続ける。「自分で自分を、変な顔だなと、この先ずっと思うのは、可哀想だと思ったの。よくよく見ると、可愛い部分もあるなって、そう思うことにしたの」まだ子供のくせに、良いこと言うわぁ。と川上弘美も感嘆する。

自分で自分を褒めてあげること。自分の可能性を信じてあげること。言い方を変えれば、脳は案外バカだということ。思ってもない自分がまだそこにいるのに、知らないうちに素通りしてしまっているとしたら、なんともったないことだろう。やればできる、なんて、精神論かもしれないけれど、所詮脳は意志に騙される。つまり、私は天才だと思うことに付け入る隙はないのである。私はおおよそのことについて天才的である。スポーツ万能でかっこいいし、賢い。そうやって思い込むことは、誰に咎められることもない。ただ、少しだけ、哀しい。笑。

【読書log】きみはポラリス/三浦しをん

恋愛小説は、何か嫌だなと思っている。誰と誰が付き合っているとか、別れたとか、ほかの人の恋愛話なんて、その程度のものでいいのではないか。「私はこれだけ思っているのに、あの人は…」なんて聞かされた日には、オ、オェー…ゲロゲロゲロ、ゲロゲロゲロ…。結局、恋愛小説となると、この手の思いがある。詰まるところ、これがメインなんです、という小説が嫌だなと思っている。しかも、それが美しいなんてことはあり得ない。相手を好きだというのは、当事者同士の話であって、それを外から見てあれこれ言うのは違うんじゃないかなぁ。どれだけ恥ずかしいことも、二人なら許される。どれだけイタいことも、二人なら許される。文章で二人を描くと、その客観性が高まってしまう。主体的であるからこそ、恋愛の悩み、その歯痒さ・もどかしさは心を揺さぶるハズ…。どれだけ入り込めるか。それが大切なのである。どれだけその相手に没頭できるか。それこそが恋愛であり、そこが楽しいのである。「苦しくて死ぬんじゃないか」。それは…単なる盲目だと思うけど。

この「きみはポラリス」は、ゲイの恋愛から始まり、母親が息子のアレを咥える話…十一の変わった恋愛小説集。まぁ、悪いことはないと思う。強くオススメはしない。ふつうです。皮肉です。設定は変わっているのに、「恋愛」の側面は、至って、ふつう。「理解できる」というのは、客観的だからだ。主体的な恋愛は、自分でさえ理解できないと思うのに。やっぱり恋愛小説は、嫌だ。というか、私には合っていない気がする。読むより聞くより、恋愛をしたい気持ちが強いだけかもしれない。あ、でも…没頭できる相手がいないんだよなぁ。でも、いっか。ほかの人から見れば、「オ、オェー…ゲロゲロゲロ、ゲロゲロゲロ…」なのだから。

【読書log】砂漠/伊坂幸太郎 *再読*

明けました。今年も、着実に明けた模様で何よりであります。前々から、「あと少しで明けそうよ」「そろそろだぞ」などと前触れも申し分なかったと思われます。明けまして、おめでとうございます。本年もどうぞよろしく。今年は、申年。どうしても「去る」という語感が強くて、とてつもない速度で去って行くのはやめてくれ。そんな気持ちで新年を迎えたのであります。まぁまぁ、ゆっくりしていけばいいじゃん、と思う次第です。

伊坂幸太郎を読んだことないよー、って人には、まずオススメしようかと思っている、『砂漠』。これが、ハンパないんですよ。大学生たちが、麻雀する日々の中でホストに絡まれたり、超能力が出てきたり、時に空き巣や通り魔と戦う、そんなステキな学生生活のお話。なかでも、西嶋というキモヲタみたいな奴が出てくるんですが(私のなかではそこそこの顔立ち)、こいつがステキすぎるですよ。「その気になればね、砂漠に雪を降らせることだって、余裕でできるんですよ」「馬鹿を見ることを死ぬほど恐れている、馬鹿ばっかりですよ」「偽善は嫌だとか言ったところでね、そういう奴に限って、自分のためには平気で嘘をつくんですよ」。

社会は砂漠だとすると、その中で自由にやっていいよ、って言われても、正直困る。どこに何があるのかなんてわからない。それと同じように、私たちの人生も、どうやったら普通の生活が営めて、あわよくば幸せになれるかなんて、わからない。だから、踠いて喚いて、逃げ回って、どうすりゃいいんだって。そうやって生きていくほかない。そうしてみると確かに、学長の言う通り、人生における最大の贅沢とは、人間関係の贅沢かもしれない。偶然、砂漠の上で出会う人たちによって、私の砂漠での生活は、潤っている。

【読書log】箱男/安部公房 2/2

そう言えば、最近ハマっていた動画は格闘技。中高生の頃、毎年大晦日になると、K-1とか総合格闘技とかやってて、かなり楽しみにしていた。また見たいなとか思って検索したらあったのでずっと見てた。またちょっと虜だった。二つの強靭な肉体が躍動するリング。ファイターたちの拳が交わるたび上がっていく会場のボルテージ。急所を狙って拳を繰り出していく戦略と緊張感。見てるこっちも身体が強張って、ノックアウトの瞬間はたまらない。

なんでだろうか、こんなにも高揚するのは。相手を打ちのめすことに、興奮するのは。自分にもそんな攻撃性があるのかと、自分を疑うことになる。「違う。自分は、この男たちのように野蛮じゃない。違う。」そう思っても、どこかに、説明のつかない欲望が潜んでいる。本当の自分は、誰かをボコボコに叩きのめしたいのだ。「違う。これは誰が一番強いのかを決める戦いであり、欲望の投影ではない。」それは自己正当化だろう、戦う理由を聞いているのではなく、魂が揺さぶられるその瞬間に用があるのだ。

欲望の爆発や暴走は、醜い。一方で、魅かれる。表裏一体である。その様をよくよく見たいのだ。そして、見て欲しいのだ。格闘技だけではない。スポーツの試合、バンドのライブ、あるいは性行為までも。汚いこと書いてしまったけれど、多分それが正であると。人間だから、理性を駆使することで生きていけるんだけど。でも、これじゃ、とんだ年末になってしまいそうだから、お気に入りの動画を貼る。いつかこの人と、カラオケに行きたい。死ぬほど笑いたい。

 

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【読書log】箱男/安部公房 1/2

箱男ダンボールを膝上まで被り、その一切で生活する男。視界分の窓を開け、音を拾えるように耳の位置に穴が空いている。その穴の一部にS字フックをかけ、ラジオや懐中電灯などをかけて、なるほど便利そうである。街に動く箱があれば、必ず目につくはずなのに、それは風景と同化して気づかれない。存在自体がない。例えば、会社に向かうまでに、青色のネクタイをしている男性は居ただろうか。グレーのスカートを履いた女性は何人居ただろうか。私たちは、意識を伴ってこの世界を生きている。注意しなければ、存在しない人たちがどれほどいたのだろうか。

これは、箱男の記録である。つまり、気づかれない存在が見た記録である。ところで、安部公房は天才かもしれない。この小説では、視点が二転三転するかのようである。当初の箱男から、すり変わり、では一体誰の記録としてこれが存在しているのか。それは、誰が箱男に成りそこなったのか、その男こそが箱男である、と。その正体は一体誰なのか。実に、羨ましい着想である。これくらいのことを言われると、御見逸れしました、と言わざるを得ない。箱男のつもりで読み進めているつもりが、「君の記録に、君の台詞をそこまで記録しているのはおかしくないか。君は箱男じゃないだろう。」この指摘によって、物語は急ブレーキを掛けられ、異次元に飛ばされる。

私たちは、他人が気になる。他人が何をしているか、何を言っているか、何を食べたのか、どこに行ったのか、誰と遊んだのか。昨今では、SNSを通じて覗き見しているということになる。見る側と見られる側。見る側は対価を支払うことで世の中は成り立ってきた。それが、無料で見ることができるようになって、そこに数多の欲望が芽生えた。見たい、見られたい。存在したい、存在しない。こうしてみると、不思議だ。確かにその通りだ。安部公房、あなたは天才として私の世界にいる。