濃いお茶がこわい

ブログ名は、落語「饅頭こわい」のさげ。よく出来た話である。

【読書log】箱男/安部公房 1/2

箱男ダンボールを膝上まで被り、その一切で生活する男。視界分の窓を開け、音を拾えるように耳の位置に穴が空いている。その穴の一部にS字フックをかけ、ラジオや懐中電灯などをかけて、なるほど便利そうである。街に動く箱があれば、必ず目につくはずなのに、それは風景と同化して気づかれない。存在自体がない。例えば、会社に向かうまでに、青色のネクタイをしている男性は居ただろうか。グレーのスカートを履いた女性は何人居ただろうか。私たちは、意識を伴ってこの世界を生きている。注意しなければ、存在しない人たちがどれほどいたのだろうか。

これは、箱男の記録である。つまり、気づかれない存在が見た記録である。ところで、安部公房は天才かもしれない。この小説では、視点が二転三転するかのようである。当初の箱男から、すり変わり、では一体誰の記録としてこれが存在しているのか。それは、誰が箱男に成りそこなったのか、その男こそが箱男である、と。その正体は一体誰なのか。実に、羨ましい着想である。これくらいのことを言われると、御見逸れしました、と言わざるを得ない。箱男のつもりで読み進めているつもりが、「君の記録に、君の台詞をそこまで記録しているのはおかしくないか。君は箱男じゃないだろう。」この指摘によって、物語は急ブレーキを掛けられ、異次元に飛ばされる。

私たちは、他人が気になる。他人が何をしているか、何を言っているか、何を食べたのか、どこに行ったのか、誰と遊んだのか。昨今では、SNSを通じて覗き見しているということになる。見る側と見られる側。見る側は対価を支払うことで世の中は成り立ってきた。それが、無料で見ることができるようになって、そこに数多の欲望が芽生えた。見たい、見られたい。存在したい、存在しない。こうしてみると、不思議だ。確かにその通りだ。安部公房、あなたは天才として私の世界にいる。