濃いお茶がこわい

ブログ名は、落語「饅頭こわい」のさげ。よく出来た話である。

少し、酔っている

だが大丈夫だ、タイプはできている。先日先輩が言っていた。「記憶を無くすまで飲んでみたい(だったかな?笑)」。理性というリミッターを外してみたいという点で共感する。就職をして、辞めて、実家に戻って。昔から思い描いていたステップを重ねるにつれ、様々なことが制限されていく。制限されて、打ち拉がれ悶え苦しむこんな自分を、想像できないでいた。だから、今日は最近脳裏にぽっと浮かぶあれこれをつらつらと書いていくことにする。

 

感動するために生きるんだよ。これは、もうかれこれ十年近く昔のドラマのセリフの受け売り。けれど、私の指標。このセリフを聞いた瞬間に、シナプスが激しく動いた。理屈じゃなかった。私は、感動するために生きるのだ。

 

この世の中には「どうでもいいこと」と「どうしようもできないこと」しか無いんだよ。これも、もうかれこれ十年近く昔のドラマの受け売り。けれど、そこにも理屈じゃない何かが、横たわっている。この社会を(当時は、実家を継ぐという自分の人生をも)よく表している言葉だ、と、どこか印象的だった。

 

有り余る自己顕示欲から推測するに、性犯罪を犯すなら、盗撮よりも露出狂だろうな、と思う。

 

小田嶋隆の「コラム道」を再読している。マジで凄すぎる。こんなに言葉を巧みに使いこなせるなら、きっと楽しいんだろな、と思う。文章を書くとき、オダジマのフレーズをパクりたいと思うのだけど、負けた気がして嫌なので何か別の表現を模索している。ただ、真似をすることは成長する上で必ず通る道なのだからいいではないか。そうも思う。でも、フレーズをパクることではないだろう、とやっぱり思い直す。

 

発想的?独立に憧れがある。だから、発想的雑多(というと怒られるかもしれないが…)なものはきらいだ。例えば、デ○ズニーとか(はいはい、すみません)。

 

若さとは、可能性だ。母校の弓道部の射会に行ってきた。その後追いコンに参加。四年生が引退をし、新たな体制で一年が始まる。積み上げてきたものは、無に等しくなる一方、新たな息吹に期待する。いつでも誰であっても、可能性は楽しみだ。

 

みんなが、きらいだ。この社会を、取り巻く人たちを思う存分めちゃくちゃにしたくてたまらない。そして、私も私自身を、全力でめちゃくちゃにしてやりたい。きらいだ。ただ、きらいなのだ。なのに、何でこんなに好きなのだ。何でこんなにも愛おしいのだ。そう思う自分が、ほんとにきらいできらいで仕方ない。

 

カッコよくなりたい。

 

やりすぎる、出しゃばる、といった経験が心のどこかに引っ掛かっている。なのに、なぜ繰り返すのか。きっとあほなのだろう。その痛みにどれだけ苦しめられてきたのか、すぐに忘れるのだ。やった瞬間に痛みが疼く。酷い場合には、痛くなるのが分かってて、やらかす。きっと死ぬまで続けるんだろうな。上手に生きたいけど、想像してみると、上手になんか生きてられるか。そう蹴飛ばしてやる。痛みを知りながらロックに生きろ。な。

 

人生なんて、死ぬまでの暇つぶし。そう、立川談志が持論を展開していた。松本大洋のピンポンという漫画でも、月本誠が「卓球なんて死ぬまでの暇つぶし」と言っている。結局はそうかも知れない、と思うけれど、どこかやるせないなぁ、と反論したくなる。

 

「うへへ」よりも「ドゥフフ」の方がよかったかもしれない。

 

友だちと行った戦闘。

 

いま、少し、酔っている。だが大丈夫、明日は休みだ。