濃いお茶がこわい

ブログ名は、落語「饅頭こわい」のさげ。よく出来た話である。

【読書log】あるキング-完全版-/伊坂幸太郎

異端。これが真っ先に浮かんだ。伊坂の作品の中でも異端に思う。内容は、山田王求という野球選手の一生を綴った物語である。それも、天才というレベルを超えた、まさに「野球の王様」のお話。「単行本版」「雑誌掲載版」「文庫本版」の三バージョンの構成から成り、解説まで含めると782ページにも及んだ。長かった。が、興味深かった。なぜか、物凄く。

この物語では、シェイクスピア著『マクベス』の冒頭で出てくる、「きれいは穢い、穢いはきれい」という引用が全体を牽引している。この物語で言えば「フェアはファウル、ファウルはフェア」となる。フェアに生きようとする人々は、アンフェアな人々に先に虐げられてしまう。なぜなら、アンフェアな人々の方が多いからだ。と、括られている。だが、その逆もまた然りなのだ。では、その、フェアとファウルの基準とは一体何なのか。ここに個人的に興味が湧く。野球であれば白線がその明暗を分ける基準となるが、果てして社会ではどうなるのだろうか、と。

もとい、山田王求は、球がストライクゾーンに飛んで来さえすれば、ホームランを打つ。野球選手としての資質をすべて兼ね備え努力を怠らず、愛想は良くないが素行が悪いという訳でもない。こんなにもフェアな人間が、アンフェアな人間にとってはファウルに映る。それは理解出来る。自分よりも容姿がよく、頭も良く、センスもある人間がいたら、嫉妬しないわけがない。違う世界の人として扱うものの、どこかで引っかかるはずだ。何か、こいつを引き摺り下ろす算段はないものかと思案することだろう。もしくは、そう思ってたとしても、お互いの利益のために争わず協力する道もあるのではと、妥協を選択することもあるかもしれない。だが、その逆もまた然りである。

「きれいは穢い、穢いはきれい」「フェアはファウル、ファウルはフェア」。瞬間的な場面に当てはめていけばキリがなく、大局観としてはどこか欠けているようなマクベスの言葉に翻弄されながらも、最後まで粘りに粘って、読み切ることができた。

最後に一言だけ言わせて欲しい。

楽しかった。