濃いお茶がこわい

ブログ名は、落語「饅頭こわい」のさげ。よく出来た話である。

【読書log】偶然の装丁家/矢萩多聞 *再読*

最近、何かが変わる気がしている。いや、実際のところ変わり始めている。これからに期待している自分がいる。世界が開ける要素がいくつか見つけられて、なんというか、結構斬新である。自分が動かなければ、世界は朽ちていくだけな気もしていたのは、確かにその通りだったのかもしれない。そうは言っても、今までの自分を変えない努力と、今までの自分を切り捨てる決断はどちらが正しいのか。なんて、多少戸惑ってもいる。

継続と変化。

何かを成し遂げるためには続けなければならないのに、これまでの様ではダメだと変化を選択することも大切だと言う。

何が、運命なのか。そして、何が幸せなのか。この『偶然の装丁家』は、その一部を心得ている様に思う。幼少期より学校が肌に合わず、インドへ行って絵を描いたり、それを元に個展を開いたり。色々な人々との関わりの中で、装丁家になった。描くことが得意で、思い切り描き続けてきた結果。その中で自分の中の自分と向き合い、たくさんの事を乗り越えてきた結果。結局、結果論な気がしてしまう。

どうしても気になる。「結果的に良かった」からこのような本を出せているのか、が。きっと本人は首を振り、まだまだ先もあるし、今の所はいいけれど…なんて言われてしまいそうだ。もし、そういった縁や運に恵まれていなければ、どうなっていたのか。けど、だからこそ、『偶然の装丁家』というタイトルなのか。

偶然とは、必然である。からこそ、必然という偶然であってほしい。って、YUKIの何かの曲のフレーズを思い出した。闇を掬い上げて、明るくする歌詞とマッチして、あの声もイイよね。話逸れたけど、これもまた運命かも。なんちって。

【読書log】はじめからその話をすればよかった/宮下奈都

嵐の夜。私は、嵐が過ぎ去っていくのをただ待っている。どこまでも続く、インターネットの中で、居心地の良い場所を探している。とにかく何かをアテにしたくて、さして興味のない動画を流して、これからいくらかしたら眠りにつくはずだ。こんな日々が、たしかに幸せだったんだ、と思えるのだろうか。何もない日々。トキメキや閃きの少ない日常が、嵐と共に過ぎ去って行ってくれればいいのに。

宮下奈都という作家を知って、かなり動揺している。こんなに文章のうまい人間がいるのかと、大げさに言えば驚愕した。「やばい…すげぇ」と何度思ったことか。文章の広げ方と収束していったその着地までが、よどみないのである。もちろん物事に相対した際の観点も面白みがある。こんなエッセイや短編小説を、私も書いてみたい。私は、宮下奈都に純粋な憧れを抱いた。

焦る。充足感のない日々を繰り返してはいけない。心の片隅には、確かにシグナルが発信されているのに、気づかないフリをしている。その、気づかないフリをしている私が言う。「別に他の誰かに、この暮らしを非難されたわけでもないでしょ」。その指摘は正しい。だが、だからこそ、心の奥底に蟠りがあるのだ。「で、結局お前は、何を成し遂げたのだ」と。

今の私は、なんというか、色々なものを広げ過ぎてしまったように思う。私は、もちろん本を読むことは好きだし、弓道もやっている。新たなバイトも始めて、今ではトリプルワークだったり。キャバクラに遊びに行くこともあるし、釣りもやりたい。カメラでたくさん写真を撮るのも好きで、それをSNSに投稿したりする。美味しいものも食べたいし、ちょっとした贅沢もしたい。そんな中、彼女も欲しい…。

何かを捨てる決断をしなければならないような気がしている。そして、得るものを定めるとしたら、まだ知らない体験を選択するべきだと。でも、こんなことばかり考えるから、何も得られない気もしてきて…。何か一つ、深く深く潜りたい。その「何か一つ」とは、何か。少し自分を省みるような時間を作ろう。

嵐の過ぎ去った後で、ゆっくりと。

【読書log】ガソリン生活/伊坂幸太郎

とにかく暑い。マジでどうにかなりそう。今年の夏は、何もすることがなくて、このままではつまらない夏になってしまう。だから、少し仕事を頑張ってみようと思う。予てから新商品を構想していた。それを試行錯誤し、製造テストを行い、カタチにしようと企んでいる。というか、カタチにする“夏”にするのだ。大人になっても、いまだに夏の自由研究という課題を持ち越している。これは、いい夏になりそうだ。…たぶん(汗

思い返してみると、学生の頃の夏とは大違いだ。学生の頃は、夏は本当に一瞬だった。マジあちぃ…とか言って、汗かきたくないから部屋でゲームして漫画読んで、気づけば「俺の夏」は蒸発していた。なのに、そこには確かに、学校の宿題がこびりついていた。どうにかして早く流したくて、だけど、仕方なく最終日に片付けることにしていた。毎年、同じことの繰り返しだったけど、それが、いわゆる“夏”であったのも事実だった。

『ガソリン生活』は、そんな夏にぴったりである。それは夏に、いろいろなところへ出かけるという点で、ぴったり。車が会話をするのだ。もちろん、人間とはできないが、車同士で会話が行われているのである。所有者のこと、自身のメーカーについてや、街で起きたいろいろな出来事について。車から見える世界は、こんなにも平和的なのかと思うと、とても癒された。あ…この話のあらすじは、申し訳ないけれど、他をあたってくらはい。

あとね!あとね!、たとえば他にも、踏切で、先頭で待っている時、貨物列車が通ると憧れの眼差しを向けたり、タクシーは高飛車だったり、自転車とは会話できず、話しかけても「●&」としか言わない。すれ違う車と会話をして、渋滞の原因を聞いたり、駐車場で隣の車に話しかけられたり、所有者の知らないところで、車はたくさんのことを楽しんでいる。そう考えると、何だか嬉しい気持ちが湧き上がってくる。

きっと、そうこうしているうちに、夏も終わってしまうから、車でどこか少し遠い場所へ行こうかと考えている。山梨あたりなら、日帰りで楽しんで帰って来れるかもしれない。ガソリンを満タンにして、朝早く出発する。まだ夏のうちに、そのわくわくを一度くらい味わってもいい気がする。私の愛車も「静岡から来たんすよー」とか言って、喜んで話しかけるかもしれない。ほら、幾らかいい夏になりそうでしょ?笑。大人の夏はまだまだこれからですよー!

【読書log】SOSの猿/伊坂幸太郎 *再読* 2/2

話の続きをしよう。

私の友人がキャバクラにハマっている。キャバクラとは、擬似恋愛を楽しむ場所である。それを、本気にしてしまった「バカなやつ」はどこにでもいるのだとすこし感動している。やはりどう考えても、キャバクラに行くことは負け試合に向かうのと同じだ。キャバ嬢は、基本的に男を「金づる」「良いカモ」と考えている。そう思われないように、褒めたり、笑ってあげたり、話を聞いてあげる。すると男は単純なので、嬉しくなってしまう。なぜか? 「愛されている」気がするからだ。だから、何度も通い、お金を落とし、気づけばお金が無い状態に陥る。キャバ嬢の方が何枚も上手である。もちろん、そのための努力は惜しまない。毎日メールをし、お店に来れば「貴方だけの私」を演じる。そして、行くたびにキレイな姿でいてくれる。

生きていれば、物寂しくなるときもある。そのぽっかり空いた穴をすぐさま埋められるようなこともなく、特別何かに長けた人間であるわけでも無い。日々ちょっとしたことがきっかけで、簡単に躓いてしまうこともある。『SOSの猿』から引用すれば、それらの人々に共通する叫びは、「僕を見て」ということらしい。だから、その叫びを聞いたときは「見放してはいけない」のだと、遠藤二郎は言う。実際に力になれなくても、声をかけてあるのが人間なんだと。そして、その人の未来を祈ることは、何も悪いことでは無いはずだと。そのほか、「うんうん確かに」と思わせるようなセリフが多くある。

『SOSの猿』を読んでいて、人を救う、とは何なのか。と、ふと考える。それは、腹のなかではドスグロい感情が渦巻いていても「すごいね!」と言ってあげることだったり。それとは反対に、一緒に同じように考えてあげるのではなく、自ら人生を楽しむ姿を見せてあげることだったり。キャバクラに通ってしまう理由と、さして変わらないのかもしれない。だから、私は心が痛い。私の友人が気に入っているキャバ嬢は、源氏名の女の人なのであって、本人ではない。最初から負け試合なのだ。「きっと、彼には悪魔が取り憑いているんじゃないか」、そういう物語を妄想し、今夜は安心して眠りにつくことにする。

【読書log】SOSの猿/伊坂幸太郎 *再読* 1/2

今、キャバクラにハマっている、友人がいる。無論私ではない。それはもう、キャバ嬢にメロメロである。そもそも、なぜ、男はキャバクラに行きたがるのか。それは、なぜ男は女の人が好きなのか、という男の本能を疑問視するのに等しい。理屈抜きに男は女の人が好きなのだ。以上。そして、根本的に、男は愛されたいのだ。通常女の人の方が、愛されたい願望があるようだが、実は反対らしい。いつだって男は「愛される男」になりたいのだ。反対に、女の人は愛していたいのだ。だから男は、ずっと愛される対象であり続ける努力をする。それが、愛される対象として見られるかを気にしながら。一方で、女の人は愛することが好きなのだとか(私は男なのでわからないが…)。もとい私の友人の場合、キャバ嬢から愛されるには「金を持っている」しかないのだけど…。

この『SOSの猿』を読み、やっぱり伊坂幸太郎はステキだと思う。めちゃくちゃ面白いし。主人公は、家電量販店で働く遠藤二郎。エアコンを売っている。遠藤二郎は、人のSOSに敏感で、他人の助けを放っておけない。例え、自分が無力であっても。遠藤二郎が昔イタリアに留学した際、悪魔払いの修行を積んでいたことを、幼いころ憧れていた近所のお姉さん、辺見さんが知る。物語は、その辺見さんの息子、眞人君が引きこもりになったことから始まる。その眞人が悪魔に取り憑かれた、だから協力してって。無論断るわけにはいかない。

この物語には、もう一つ裏でストーリーがある。菩薩証券で、ある事故が起こる。株の売買のとき、一株五十万で取引されるものが、五十万株一円でやり取りされ、その被害額は三百億円。その原因を探る五十嵐真。桑原システムの社員で、システムのバグの、原因の原因を探ることが仕事だ。桑原システムは菩薩証券へシステムを導入していた。なぜ、そのような事故が起きたのか。また、この二つがどのように絡み合うのか。そこまではここで紙面を割けない。

それよりも私の友人が、なぜキャバクラにハマったのか、それはまた次の回にて。

 

【読書log】七つの会議/池井戸潤

噂は真実から離れていくものだ。それをここ最近よくよく感じる。私は弓道をやっているのだが、所属支部とは異なる支部へと足繁く通っている。すると、良く思わない人々が出てくる。「あいつは、他の支部の先生への元へと習いに行っている」と噂は広まる。ここまでは真実。問題はその先。「所属支部の先生を尊敬していない。どちらの弟子なのか」と少し尾ひれが付いてくる。私の環境や発想、つまり、通っている理由については面白可笑しく脚色されていく。まぁ、、それだけ、他の支部の先生へ習いに行くことが良しとされないらしい。くだらん。

池井戸潤著『七つの会議』。この会社にはある秘密があった、って、コピーにちょっと惹かれて買ってみた。七つの会議を中心とした描写から、その秘密へと迫っていく。会社には大小様々な秘密…嘘がある。嘘とまではいかなくとも、確かに、グレーゾーンは存在する気がする。私が知らないだけで。秘密を隠す側と、暴く側。さて、どちらが正義なのか。近年、「企業がお客を選ぶ」というキーワードが蔓延っている。とりわけ飲食店・小売店などで良く見られる。でもそれって、会社側の事情の、すり替えではないか。ちょっと前まで「お客様第一!」とか言ってたくせに…。「いや、弊社のコンセプトを理解してくれたお客様への、最大限の価値・サービスを提供することがこれからの…(ry」

でも、これって、もの凄く繊細なことで、超絶ムズイ気がしてるんですよ。商品やサービスの価格や内容を軸として、商品デザイン、製品イメージなどを利用して、宣伝・口コミなどを駆使して伝えていく。けど、伝えようとして伝わることなんて、ほんの一握りでしかない。そんな気がする。だからこそ、伝えていく。反対に、だからこそ、秘密にしてみる。あとは、受け取る側の自由だと。ひょっとしたら、隠し通せるかもしれない。もしかしたら、暴かれるかもしれない。本意である出発点から末端へ行くに従って、その本意から逸れていく。的を狙い飛んでいく矢も、ど真ん中へ向かう矢以外は、的から逸れていくものだ。その出発点と着地、逸れていく過程を味わえる小説だと思う。

【読書log】残り全部バケーション/伊坂幸太郎

書かなければ、書けなくなる。とはよく言ったもので、確かに何を書けばいいのか、わからない。近況と織り交ぜてこの「読書log」を書いていたけれど、もはや4ヶ月も過ぎてしまえば、それはどこからが近況なのか、かいつまんだ話をしても仕方ない。このブログ自体も、続ける意味があるのか。非常に迷っている。書きたいときは、次々と言葉が頭に浮かんで、楽しくて仕方ない。けど、何か一度つまずいてしまうと、立ち上がるのは難しい。読み手によりよい文章を、なんて思ったところでつまらない。ちょっと自分本位になっただけなのに、それだともっとつまらない。このブログも、行き当たりばったりみたいなスタンスで、読み返してみると、「なんなんだこの文章は…」と、わざわざ黒歴史を更新していることに気づかない自分に呆れる。だから、あとはもう休んでいいよ、って言ってもらいたい。

結局、毎日それなりに忙しく、ちょっとした悩みの種もありつつ日々は簡単に過ぎ去ってしまう。それと同じように、はっきり言ってあまりこの『残り全部バケーション』は覚えていない。なんというか、つまらないとも違うのだが…タイトル負け?。見てないけど、伊坂幸太郎の本なので、他にたくさん書評があるはずで、あらすじはそちらをご参照いただいて。

溝口という当たり屋が、後輩の岡田に残りの人生を休暇にしてあげて、毒島という悪組織のボスに、今度は溝口が残りの人生を休暇にしてもらう、ていうお話(端折りすぎて、全然違う…)。中でも、気に入ったのは、人に親切にしてあげると、それが帰ってくるという因果応報的なとこ。現実では、あまりそういうのは無いから…かな。もう十分がんばったじゃん?だから、残り全部バケーションでいいよ?って、言ってもらいたい。それは確かに甘えだけど、なんというか、認められるって少ない。誰でもいいから抱きしめてもらいたい気持ちのときに、本当に抱きしめてもらえたら、私も抱きしめてあげられる。例えばそんな感じ。だから…抱きしめてよ?笑。